ニュースレター   翔牛(しょうぎゅう)   132号  平成23年7月31日 

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ランチェスター戦略による 社長の経営戦略教室  

強者(弱者の反面教師)の戦略に学ぶな(12) 強者は弱者を包囲する(2)

包囲戦略の第2は地域です。1600年(慶長5)の「関ヶ原の戦い」で勝利した徳川家康は、それから14年かけて豊臣恩顧の大名をあるいは排除し、あるいは自軍に引き入れ、豊臣方を孤立させ、そのうえで大阪の陣を仕掛け、それでも攻めきれずに冬の陣でまず外堀を埋め、更に内堀までも埋めて、平城にして、夏の陣でやっと攻め落とすことが出来ました。

関ヶ原の戦いから大坂の陣までが、強者の包囲殲滅戦略の典型例の一つです。これを経営に応用すれば強者の地域戦略になります。例えば千葉市の市場を押さえるには、その周辺の市の市場を押さえ、それから千葉市に攻勢をかけるというやり方です。時間と金が掛かりますが確実なやり方です。

弱者はこれほどの時間と金をかけられません。ではどうするか。解決策は1つではなく幾つかあります。経営はどちらかといえば、テクノロジー(技術)ではなくアート(芸術)に似ています。経営者自身が自分のアートを創造する事がすなわち経営する事になります。真田幸村の戦法、戦略が参考になりそうです。

(参考文献:竹田陽一著「ランチェスター 中小企業の成功戦略」ほか)

 税金一口メモ    ロータリークラブ、ライオンズクラブの入会金等   (h23.3p290)

使用者が負担する標記クラブの入会金、経常会費等について、その役員、使用人が受ける経済的利益は、他のクラブのそれとは異なり原則として無いものとされます。経常会費以外の費用についても同様で、ただその費用が特定の役員等が負担認すべきものであると認められる場合は当該役員等の給与等とされます。詳しくは事務所まで。

雑情報 その1 今日はどんな 7月20日 1876年(明治9) 海の日(旧海の記念日) 

1853年のペリー来航以来の大動乱が徳川幕府崩壊、戊辰戦争という内戦を経てようやく明治維新政府が、帝国主義真っただ中の世界に、「富国強兵」「殖産興業」を国策として掲げ、船出しました。

1945年(昭和20)の終戦後と同様、価値観、世界観の大転換時代が醸し出す不安と幻滅、かたや建制のしがらみを解かれた自由精神の躍動に世情が揺れ動いていました。明治6年、征韓論に敗れ西郷隆盛らが下野し、各地で民権運動と共に士族の乱が続発し、西郷隆盛の去就(「西南の役」勃発は翌年2月)が天下の耳目を集めていたこの年の6月2日、戊辰戦争に敗れ、艱難辛苦の日々を過ごす東北・北海道の人々を慰撫し激励するために明治天皇みずから馬車で福島、仙台、岩手、青森と北上、さらに明治丸で津軽海峡を渡り函館へ。

50日に及ぶ御巡幸を各地で人々は天皇を奉迎し、天皇も親しく各地の功労者や開拓者を称揚し、ねぎらわれ、苦労話などにも耳を傾けられ、信頼と親愛の絆を結ばれようとする君主の姿が各地で見られました。この御巡幸で東北・北海道の人々は天皇の体現する日本との一体感を感得し、戊辰戦争のわだかまりはなくなったようです。薩長はまた別問題として残った様ですが、、。そして又明治丸で函館から三陸沖を海路東京へ着かれたのがこの日で、戦前は「海の記念日」とされていました。

今年3月11日の東北関東大震災、戦争ではなく自然災害ですが、東北の人々が傷つき、艱難辛苦の日々を送っている状況は同様です。天皇陛下始め皇族方の東北訪問、激励に彼の地の人々が癒され慰められる様を見るにつけ、天皇家の癒しの力に今更のように打たれました。

その2 彼は言った、、、 「ラ・ロシュフコー箴言集」より

我々は死すべき人間としてすべてを恐れ、あたかも不死であるかのごとくすべてを欲する。

神は自然の中にいろいろな木を植えたように、人間の中に色々な才能を配した。それでひとつひとつの才能は木それぞれと同じに、いずれも独自の特性と働きを持つようになっている。(続く)

編集後記あるいは近況報告・雑感 (ご不用の方はお申し出くださいます様、お願い致します。)

7月も終わり暑い夏も後1月。9月の声を聞くころには、「菅」無しになっているでしょうか。反国家権力を標榜してきた市民運動家が、政治家になって国家権力を握り行使するというのが土台可笑しい。連合赤軍やオウム真理教の方が屁理屈なりに首尾一貫しています。但し屁理屈の行く着く先は自滅、破滅ですが、、、。

ある国家や組織が、滅ぶ時、自壊する時のパターンは決まっています。過度の官僚主義に依る時、主観的な自信過剰に奔るとき、希望的観測による楽観論に逃避するとき、あるいはその複合。